「統一教会問題」と「ホスト問題」の共通点 〝キモイもの〟を感情的に例外扱いしていいのか?【仲正昌樹】
統一教会の信者だった時代の私の経験からすると、普段はかなり人格者風にしていて、誤解されがちなマイノリティの権利を擁護することをモットーとしている学者や宗教家であっても、いったん、「こいつらキモイ(汚らわしい)。こいつらの気持ちなんか想像したくない」、という感情が発動すると、相手がどういう存在で、普段実際にどういうことをやっているかを知ろうと冷静に努力することを――はっきりと自覚しないまま――拒絶し、どんな説明も受け入れない。そして、そういう自分の態度に合わせて、自分が相手を拒絶するのが正当である、という物語を後から作り出す――本人に自覚はなく、自分では極めて冷静な判断をしているつもりになっている。“正義の味方”で通っている人ほど、[感情的拒絶→正当化の物語→拒絶する態度の強化]という反応パターンに陥りやすい。
信者をやめてからも、統一教会時代のことを語ると、目の前にいる学者や牧師が、急に拒絶の態度を取り始め、私の話に耳を閉ざして、そわそわし出すのを何度か目にした。私が統一教会の信者だったと知って、「吐きそうになった」とわざわざ、ネットに書く“仲正ファン”がいる――ファンだったと言った方がダメージを与えられると思って、事後的・瞬間的に“ファン”になった人もいるだろうが。
人間は、自分で思っているより遥かに、キモイとか汚らわしい、
アメリカの哲学者で、人間の潜在能力(capability)や生活の質に関する議論で知られるマーサ・ヌスバウム(一九四七- )は、公正であるべき「法」が実は様々な感情を織り込んでいることを、英米の近代法制史に即して明らかにした『感情と法』(二〇〇四)で、「法」との関わりが特に重要な感情として、「嫌悪感disgust」と「恥辱shame」を挙げている。
前者は、人間にとって自分もまた動物であり、動物と同じような生理的作用によって生きていることを見せつけられるような出来事や事物に対する拒否反応から生じる、という。人間の体から排出された物に嫌悪感を覚えるのは、それらが自分の中にもあること、自分も食物を摂取して、排出する動物、いつしか自分そのものが廃棄物化する動物にすぎないことを感じさせられるからである。淫らな行為を汚らわしいと思うのは、自分にもそういう制御しきれない動物的な欲求があるからである。